2012年4月26日木曜日

ウィンストン・チャーチル - Wikipedia


サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874年11月30日 - 1965年1月24日)はイギリスの政治家。1940年から1945年にかけてイギリス戦時内閣の首相としてイギリス国民を指導し、第二次世界大戦を勝利に導く。大戦終結後に再び首相となる。コマンド部隊創設者[1]

彼の家名(ファミリーネーム)は単に「チャーチル」と呼ばれることが圧倒的に多いが、正式には「スペンサー=チャーチル」という複合姓(二重姓)である。フランクリン・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にある。

2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。

[編集] 生い立ち

1874年11月30日にオックスフォードシャー・ウッドストックのブレナム宮殿に生まれる。ブレナム宮殿は、スペンサー=チャーチル家の祖先マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブレンハイムの戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅である。

父ランドルフ・チャーチルは第7代マールバラ公の息子(3男)で、後に保守党の領袖となり蔵相などをつとめた有力政治家であった。また、母はアメリカの銀行家レナード・ジェロームの次女で、社交界の花形であったジャネット(ジェニー)である。チャーチル誕生時は、それぞれ25、20歳であった。

幼年時代に寄宿学校(ハーロー校)に入れられ、厳格な教育を受けた。生来は左利きだったが右利きになることを強要され、後遺症に苦しめられる。成績はビリから三番目、彼より下位の二人は病気などの理由で退学。あまりの成績の悪さに、ギリシア語、ラテン語は身につかないだろうということで、特別補修のクラスで教師のソマヴェルから、英語の構文を徹底的に教えられた。[2]彼の学校時代の成績は終始ふるわなかったが、フェンシングは大会で優勝するほどの腕前であった。サンドハースト王立陸軍士官学校を3度受験してようやく合格した。ハーロー校入学自体が校長の特別な計らいだったともいわれる。

[編集] 従軍

1895年にサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業し、騎兵隊少尉に任官した。その後、軍事顧問としてキューバやインドにおもむき、本国の雑誌に記事を寄せた。特に、インドでの通信は『マラカンド野戦軍』という一冊の本にまとめられて評判となり、ときの首相であるソールズベリー侯に面会を求められている。

1899年には陸軍を退官し、ランカシャー州のオーダムから保守党候補として出馬するも敗北。1899年のボーア戦争には従軍記者として参加。ナタールのレディスミスにおいての戦闘に向かう途中で敵に捕われ、捕虜となるが脱走に成功。ポルトガル領ロレンソ・マルケス(現マプト)の領事館に無事到着した。チャーチルの脱走はボーア戦争で敗戦続きだったイギリスにとって、久しぶりに明るいニュースとして伝えられ、チャーチルの知名度を飛躍的に高めた。その後、アフリカ軽騎兵連隊に入隊し、記者の活動を続けながら戦闘にも従事した。除隊後、これらの体験を著書として発刊し、4,000ポンドの収益と名声を手に入れた。

[編集] 政界進出

1900年に再びオーダム選挙区より保守党から下院議員選挙に出馬し、初当選を果たした。1904年に、チャーチルは保護関税問題から保守党を離党し、自由党に移籍した。1905年、自由党が政権を握るとヘンリー・キャンベル=バナマン内閣で植民地相次官に就任した。

1906年の総選挙でマンチェスター市に転区し当選。1908年、33歳のときにはハーバート・ヘンリー・アスキス内閣で商務相に就任した。これは当時イギリス史上二番目に若い閣僚であった。しかし、当時は閣僚となった場合一度辞職して再選挙に臨まねばならない法律があり、この再選挙に敗れてスコットランドのダンディー市へと転区して、そこで勝利を収めた。商務相としては労働交換所の設立を行い、続いて1910年に就任した内務相としても失業保険制度を導入して、イギリスの社会福祉の基礎を築いた。しかし、1910年に南ウェールズにあるトニイパンディの町で炭鉱夫の大ストライキがおき、内相チャーチルが早々と軍を出動させたことから非難を浴びた。もっともこの事件の際、実際にはチャーチルは軍を後衛に控えさせて非武装� ��警官を投入し[3]、死者を出さずに事態を収拾することに成功している。しかし、この事件での強硬な対応は尾を引き、「トニイパンディを忘れるな」との悪評が付きまとうこととなった。1908年、11歳年下のクレメンタイン(1885年 - 1977年)と結婚した。夫婦仲は良好で、1男4女をもうけた。末子のメアリー(1922年 - )のみが、2010年現在も存命である。彼女は父とポツダムに同行しており、1979年には母の伝記を出版している。


何が国際的な暴力を解決するのだろうか?

[編集] 第一次世界大戦期

1911年、チャーチルは海軍相となり、在任のまま第一次世界大戦を迎えた。しかし、敵国となったオスマン帝国の首都イスタンブルの入り口であるダーダネルス海峡制圧をねらって彼が推進したガリポリの戦い(1915年)は、意見対立から陸軍の援護が無くイギリス軍の惨憺たる敗北に終わり、チャーチルは「ガリポリの肉屋(屠殺者)」と批判され、内閣を去らねばならなかった。この敗戦はしばらく尾を引き、議会で何か提案すると「またダーダネルスか」と野次られ、皮肉られた。

この時から絵筆をとり、以後の50年間に500点以上の作品を残した。繊細で穏やか、かつカラフルな風景画が特色である。1930年代の「荒野の10年」と自ら呼んだ時代の作品が多い。「Painting As a Pastime」という著書もある。1917年にチャーチルはロイド・ジョージ内閣の軍需相として政権に復帰し、戦争推進のために意欲的に働いた。

[編集] 大戦間

1919年以降はロシア革命に対する干渉を露骨に実施する役割を果たした。1921年にチャーチルは植民地相に転じ、アイルランド自由国の独立を認めた英愛条約(イギリス=アイルランド条約)の交渉団に加わっていた。

1922年には落選して政権を去ったが、この間「反社会主義」の立場を鮮明にして保守党に再接近した。さらに補欠選挙で2度落選した後、1924年の選挙ではエセックス州のエッピングから保守党支持で立候補して当選し(翌年正式に入党)、スタンリー・ボールドウィン内閣の財務相に就任した。チャーチルは落選が多かった政治家であるが、これ以後は常に議席を守り続けた。

1929年に、保守党が選挙に敗北した後は再び政権から離れ、1931年に発足したラムゼイ・マクドナルド挙国一致内閣にも入閣せず、1939年に海軍大臣となるまで10年間閣僚の椅子から遠ざかっていた。のちに自ら「荒野の10年」と呼んだこの不遇の時期、彼は先祖のマールバラ公の伝記執筆などの著作や描画に専念した。

1934年-1936年にチャーチルは、ラルフ・ウィグラム (Ralph_Wigram) によって入手された、ナチス党政権下のドイツの再軍備化の情報をデスモンド・モートン (Desmond_Morton_(officer)) より得た。その情報を元にチャーチルはスタンリー・ボールドウィン内閣を攻撃した。

ラルフ・ウィグラムの情報はRobert Gilbert Vansittartの懸念を裏付けるものだった。Other Clubの仲間で後1945年に新しいフィナンシャル・タイムズを設立するBrendan Brackenも同意見で、チャーチルの閣僚入りを大いに助けた。しかし1936年にラルフ・ウィグラムは不審な死を遂げた。後にチャーチルは五巻の第二次世界大戦の本のなかで彼を「great unsung hero」と述べている(この事件を描いた映画が "The Gathering Storm" である)。

1936年にはボールドウィンに対する支持が減退し始め、対抗馬としてチャーチルを推す動きが高まっていたが、同時期に国王ジョージ5世が死去し、あとを継いだエドワード8世がウォリス・シンプソンとの結婚の意志を固めると、退位を迫るボールドウィンに対し国王を擁護する姿勢をとったため世論の支持を失い、ボールドウィンはネヴィル・チェンバレンへと政権を移譲した。チェンバレン政権の下では一時政権批判を控えたものの、アドルフ・ヒトラーとナチスドイツの台頭を警戒し、宥和政策をとるチェンバレンへの批判を強めていった。ミュンヘン協定にも反対し、宥和政策の失敗が明らかになるにつれてチャーチルの声望が高まっていった。

[編集] 第二次世界大戦

1939年9月にポーランドに侵攻したアドルフ・ヒトラー率いるドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまると、チャーチルは内閣に招かれて再び海相に就任した(この時海軍は「ウィンストンが帰ってきた (Winston is back)」と艦隊に発信している)。1940年にはネヴィル・チェンバレンの後任として首相に任命され、みずから国防相を兼任して陸海空の参謀総長(海軍については第一海軍卿)を直接指揮する形をとり、挙国一致内閣を率いて戦時指導にあたった。この頃の個人秘書がJock Colvilleである。

イギリスは英仏海峡の対岸ヨーロッパで主力配備し敵を阻む伝統であったがダイナモ作戦により人員、機材を失ったため、チャーチルが攻撃は最大の防御とし局地的な攻撃での反撃としてダッドレー・クラーク陸軍中佐の発案によるコマンド部隊の創設命令がされる。ボーア戦争でのチャーチルの敵部隊を見聞した経験による。[4]

チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していき、ドイツ空軍による「バトル・オブ・ブリテン」を勝利に導いた。さらに1941年には、中立を保っていたアメリカ合衆国のフランクリン・D・ルーズベルト大統領との協力の下、武器貸与法に基づきアメリカからの武器貸与を受ける手はずを整えた。

ハスティングス・イズメイ (Hastings Ismay) の協力もありそのように強力な指導力を見せることが出来た中、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦に伴い日本と対決したマレー沖海戦では、大日本帝国海軍の攻撃により東洋艦隊の新造戦艦2隻を失い、後に著書の中でこの出来事を「第二次世界大戦中もっとも衝撃を受けたことだ」と記している。その後もイギリス軍は日本軍に対して敗退を続け、海峡植民地や香港、ビルマを失った上に、セイロン沖海戦でも敗退し空母を失うなど大打撃を受けた。


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また、エル・アラメインの戦いやハスキー作戦で勝利を収めたものの、アメリカ陸軍のジョージ・パットン将軍と個人的な衝突をおこした他、ドワイト・D・アイゼンハワー将軍とも対立したバーナード・モントゴメリー陸軍少将の処遇にはかなり手を焼いている(この頃を描いた映画が "Into the Storm" である)。更に日本軍の侵攻の危機にさらされたオーストラリアの防衛を巡って、ロンドンに派遣されていたオーストラリア外相のハーバート・エバットとも衝突した。

しかしその後、アメリカやソビエト連邦などの他の連合国との協力関係を元に戦局を挽回した。チャーチルはアメリカのルーズベルトとソ連のスターリンと共に連合国の三巨頭であり、米英ソ中で構成される「四人の警察官構想」の一員でもあったが、蒋介石の中華民国を「四人の警察官」に加える事に反対していた。しかし、中華民国が「四人の警察官」に加わったと共にチャーチルはド・ゴールのフランスも参加させ、これにより国連の常任理事国が5か国になった。戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談やポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年7月におこなわれた総選挙で保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。

敗北が確定したのはポツダム会談中だったため、同行していたアトリーに全権を委ねて帰国することになった[5]。このためチャーチルは第二次世界大戦のイギリスの勝利のみならず、連合国の勝利に大きく貢献したにもかかわらず、勝利の瞬間を首相として祝うことは叶わなかった。

[編集] 冷戦期

その後、ハリー・S・トルーマンの招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、1946年3月5日にミズーリ州フルトンで行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン」演説を行い、自由主義陣営の盟主のアメリカと、共産主義陣営のソビエトを軸にした冷戦の到来を予言した。また、この時期に「第二次世界大戦回顧録」の執筆にとりかかり、1948年に1巻を出版し、以後1年ごとに一巻を上梓し、最後の一巻は首相就任のため出版が遅れたものの、1953年に第6巻を出して完結させた。この著書により、チャーチルは1953年にノーベル文学賞を受賞した。

1951年の総選挙で保守党が勝利すると、チャーチルは再び首相に就任したが、2度目の政権は国際問題に悩まされ、大英帝国の衰退を告げる下り坂の時代に終始した。また、脳卒中の発作にも悩み、アンフェタミンを服用しなければ演説が出来ないほどまでに体力は低下していた。アトリー労働党政権とは逆に、鉄鋼や運輸分野において非国有化を行った。

また、選挙の年にはイランでモハンマド・モサデク首相がイギリス系の石油会社アングロ・イラニアン石油の国有化を宣言し、イランの石油権益が失われた。植民地ケニアではキクユ族による抵抗運動から1952年に非常事態宣言が発令されてマウマウ戦争に発展し、イギリスは植民地政策の転換を迫られた。マレーシアでも独立の機運が高まって反英ゲリラの闘争が頻発し、近い将来にマレーシアが独立することを承認せざるを得なくなった。

1955年、チャーチルは首相職をアンソニー・イーデンに譲り引退した。1952年に即位したエリザベス2世は新たにロンドン公爵位を創設しチャーチルに与えようとした。父と同じく政治家を目指していた息子のランドルフは下院議員となる資格を失うことを恐れ反対したためこの話は実現しなかった。1963年にはアメリカから名誉市民権を贈られたが、その頃には頻繁に心臓発作をくり返すようになり、式典に出ることができなかった。次第に恍惚状態になることが多くなり、一日に頭がはっきりしているのは2、3時間という有様であったという。1965年1月15日に脳卒中で倒れ1月24日午前8時(日本時間午後5時)頃に息を引き取った。その後、平民としては史上初となる国葬によって葬られた。

チャーチルは非常に英雄主義的な考えを持った政治家であり、政治や文学にその才能を発揮した。第二次世界大戦の困難な時期に、彼は強い意志と楽観主義をもって、憔悴したイギリス国民を激励した。戦意を保ち、軍事戦略を立案し、ついにはアメリカ・ソ連と同盟しイギリスを勝利に導いた。彼はたぐいまれな軍事的知識を持ち、その戦略家としての名声は卓越したものがある。しかし、批判者のなかには「彼の提案する壮大で無謀な作戦戦略は、しばしば現場と衝突し、混乱させた」と主張する者もある。これは、チャーチルには、幼少時から、ハンニバルやカエサル、ナポレオンなどの英雄に対する強い憧れがあり、それに後述する躁うつ症状が重なったことが大きく影響したとする。ナポレオンへの思い入れは深く、少年時は� ��製のナポレオン時代の兵士の人形をコレクションしていた。

彼の政治キャリアは長きにわたるが、そこにはいくたびかの不遇期があった。特に、戦間期にはチャーチルは古い帝国主義的幻想にしがみついた時代遅れの政治家と考えられていた。また、彼はマールバラ公家特有の躁うつ病を患い、生涯に心臓発作を含むさまざまな病と闘った(彼は自身の躁うつ病のことを『私の中の黒い犬』と呼んでいた)。


スティーブン·バンダーは、ロールス·ロイスの都市で行う

また、彼の文才とユーモアとウィットのセンスは広く認められたものであった。彼はその政治家としてのスタートをさまざまな戦記を執筆することからはじめた。彼は下院議員に当選後も積極的に執筆活動を続け、海軍大臣として第一線で活躍した第一次世界大戦を書いた作品や自分自身の先祖ジョン・チャーチルや父ランドルフ・チャーチルを書いた伝記など多数を執筆。特に、第二次世界大戦を描いた一連の大作は有名であり、それらの筆業は彼にノーベル文学賞をもたらした。日常ではジョークの名手かつ毒舌家であり、ある女性議員から「私があなたの妻だったらあなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉られたところ、「私があなたの夫だったら喜んでその紅茶を飲むでしょう」と平然と言い返したという話は有名で、� ��性議員を悔しがらせたと伝えられる。

なお、彼が優秀な政治家の条件として挙げたのは「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを弁解する能力」である。


  • 昼寝をすることが日課であり、他人にも勧めていた。国会会期中であっても昼寝ができるように議事堂内にチャーチル専用のベッドが用意されていた。医学的にも適度な昼寝は心身の疲れを取りストレス解消につながることが指摘されており、チャーチルが不健康であったにもかかわらず長命であったのも昼寝の効用であったとする専門家もいる。
  • トレードマークの葉巻はキューバ産の「ロメオ・イ・フリエタ」やフィリピン産の「タバカレラ」を愛用した。それを由来として、長さ178ミリ、直径18.
    65ミリ以上の葉巻を「チャーチルサイズ」と呼んでいる。しかし、大きいサイズを好んだものの、煙は吸わず、噛んでいるだけのことが多く、大方は半分あたりまでしか吸わなかったという。また、葉巻はロンドンにあるダンヒルなど有名たばこ店から購入していたが、第二次世界大戦中にダンヒルの店がドイツ空軍による爆撃にあった際、ただちにマネージャーが首相官邸に「あなたの葉巻は大丈夫です」と電話をしたという。
  • 1929年10月24日、たまたまウォール街を見学に訪れていたため、世界恐慌の引き金となった、いわゆる「暗黒の木曜日」を目の当たりにした。
  • 競馬にも造詣が深く、オリオール(1950年 - 1974年)の産駒ヴィエナを所有していたことでも知られる。ヴィエナ自身はそれほど活躍しなかったが、のちに産駒ヴェイグリーノーブルが競走馬だけでなく種牡馬としても活躍し、1980年代の競馬界におけるオリオール系の繁栄の一端を担った。
  •  政治家としては早くから顕職を歴任したが、落選することも多かった。これは彼が特定の選挙区に地盤を持たず、各地の選挙区に転区を繰り返していたためである。そのため、自分自身の後援会組織を作ることができずに個人人気のみで勝負せざるを得ず、実績のわりに多くの落選を経験することとなった。
  • 「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」
  • 「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである」
  • 「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ」
  • 「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」
  • 「絶対に屈服してはならない。絶対に、絶対に、絶対に、絶対に」
  • 「我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない」
  • 「実際のところ、民主制は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」(あらゆる政治体制に民主制が打ち勝ってきたことを挙げて)
  • 「戦争からきらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。アレキサンダーや、シーザーや、ナポレオンが兵士達と共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆け巡り、帝国の運命を決する。そんなことはもう、なくなった」(第一次世界大戦に際して、『世界の危機』)
  • 「これからの英雄は、安全で静かで、物憂い事務室にいて、書記官達に取り囲まれて座る。一方何千という兵士達が、電話一本で機械の力によって殺され、息の根を止められる。これから先に起こる戦争は、女性や、子供や、一般市民全体を殺すことになるだろう。やがてそれぞれの国には、大規模で、限界のない、一度発動されたら制御不可能となるような破壊のためのシステムを生み出すことになる」(同上)
  • 「人類ははじめて自分たちを絶滅させることのできる道具を手に入れた。これこそが人類の栄光と苦労のすべてが最後の到達した運命である」(同上)
  • 「政治は戦争と同じくらいエキサイティングで危険である。戦争では君を一度しか殺せないが、政治では君を何度も殺せることができる」
  • 「将軍は自分をジャンヌ・ダルクか、あるいはナポレオンかと思っている。だが誰も彼を火炙りにすることも、島流しにすることもできない」(フランクリン・ルーズヴェルトにシャルル・ド・ゴールの排除を持ちかけられたとき)
  • 「実のところ我が軍の最高の秘密兵器はヒトラーだ」(ドイツがバルバロッサ作戦を開始した直後の言葉)
  • 「イギリス以外の国は全部仮想敵国だ」(第二次世界大戦中、「イギリスにとっての仮想敵国とはどこですか?」という質問への返答)
  • 「もしヒトラーが地獄に攻め入ったら私は議会で悪魔を助けるよう演説するだろう」
  • 「私が歴史を書くのだから、歴史は私に好意的だろう」
  • 「戦争での成功を保証できる者などいない。いるのは成功を収める権利を勝ち取った者だけだ」
  • 「人類の戦闘において、かくも多数の人々が、かくも少数の人々によって、これほど多くの恩恵をうけたことはかつてない。」(バトル・オブ・ブリテンを振り返った時の言葉)
  • 「うちのボンクラ息子よりはマシな奴だよ」(息子の嫁が、フィアットのジャンニ・アニェッリと不倫し、それが報道された時、アニェッリを評して)
  • 「その国の高齢者の状態を見ると、その国の文化の状況がわかる」
  • 「これは我が党の長い歴史の中で蒙った最悪の厄災だ」(ポツダム会談直後の総選挙惨敗を受けて)
  • 「私はイギリスが今や世界のおとなしい役割に追放されたという見解を拒否する」(アメリカ名誉市民権を贈られたとき)
  • 「何もかもウンザリしちゃったよ」(臨終の際の最後の言葉)
  • ある人が「一度も絵を描いたことのない者が名士というだけで美術展の審査員を務めています。如何なものでしょうか?」と尋ねるとチャーチルは「私はタマゴを産んだことは一度もありませんが、タマゴが腐っているかどうかは分かります」

[編集] 80">架空の名言

チャーチルが「20歳までに左翼に傾倒しない者は情熱が足りない。20歳を過ぎて左翼に傾倒している者は知能が足りない」と発言したという事が巷間に伝わっているが、これは誤った情報であり、チャーチルがこのような発言をしたという公式文書などは存在しないことが指摘されている[6]。 同じイギリスの首相であるディズレーリの発言「16歳で自由党員にあらざる者は、心を持たぬ。60歳で保守党員にあらざる者は、頭を持たぬ」が上記の言葉の元となったともいう説もあるが、この「名言」には年齢の部分などにさまざまな異種があると同時に、誰が言ったかについても明確な根拠がなく、出典は不明である。ディズレーリの他にもジョージ・バーナード・ショー、アリスティード・ブリアン、ウッドロー・ウィルソン、オットー・フォン・ビスマルク、ジョルジュ・クレマンソー、フランソワ・ギゾー、バートランド・ラッセル、デイヴィッド・ロイド=ジョージといった大物の発言に擬せられたことがある[7]

また、競馬関連の名言としてよく引き合いに出される「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になるより難しい」という発言も出典がなく、現在では作り話とされている。この言葉は本国であるはずのイギリスではほとんど知られておらず、競馬ライターの高崎武大は著書の中で、自らが創作したとする元JRA職員の証言を載せている。


  • 『サヴローラ』(小説)
  • 『マラカンド野戦軍』(戦記)
  • 『河畔の戦争』(戦記)
  • 『ランドルフ卿』(父ランドルフの伝記)
  • 『世界の危機』(第一次世界大戦の回想録)
  • 『第二次世界大戦回想録』(1953年にノーベル文学賞)
  • 『第二次世界大戦』(『第二次世界大戦回想録』を、自身で戦記を中心に短くまとめた)
  • 『わが半生』(若き日の回想録)
  1. ^ 白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版 (2008/12/5)7-8頁
  2. ^ W・チャーチル著、中村祐吉訳『わが半生』誠光社, 1950 p.24-25;角川文庫,1965
  3. ^ 「チャーチル 増補版」p129 河合秀和著 中公新書 1998年1月25日発行
  4. ^ 白石光『ミリタリー選書 29 第二次大戦の特殊作戦』イカロス出版 (2008/12/5)7-8頁
  5. ^ 投票自体は7月5日であったが、戦争で全世界に駐留する将兵の不在者投票分の集計に手間取り、このような形になった。
  6. ^
  7. ^ [1]

[編集] 参考文献

  • ロード・モーラン『チャーチル 生存の戦い』(河出書房新社、1967年) 主治医の日記が元
  • Jose Harris(柏野健三訳)『その生涯(上・中・下)』(ふくろう出版、1995年・1997・1999年)
  • 大森実 『チャーチル 不屈の戦士』(講談社 人物現代史4、1978年)
  • 河合秀和 『増補版 チャーチル』(中公新書 1998年)
  • ジョン・ルカーチ 『ヒトラー対チャーチル』(共同通信社、1995年)
  • ロバート・ペイン 『チャーチル』(りぶらりあ選書・法政大学出版局、1993年)
  • ウィンストン・スペンサー=チャーチル(孫) 『祖父チャーチルと私 若き冒険の日々』(りぶらりあ選書、1994年)
  • ジョン・コルヴィル 『ダウニング街日記 首相チャーチルのかたわらで』(20世紀メモリアル上下/平凡社、1990年)
  • 祥伝社新書編集部編 『グレートスモーカー ― 歴史を変えた愛煙家たち』(祥伝社、2006年)
  • 山田風太郎 『人間臨終図鑑Ⅲ』(徳間文庫、1987年)

[編集] 関連項目

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