多文化主義政策は、オーストラリア人全員が諸手を挙げて賛同している訳ではない。
■第一に労働力不足を解決するため。
第二次世界大戦以降、労働力不足が深刻化し、ギリシャやイタリアなどの南ヨーロッパの国々からの移民が増加した。当時オーストラリアは白豪主義を掲げ、新移民に同化を求めたが新移民がそれぞれの文化を大切にしたため問題も多く、白豪主義の見直しが始まった。
分配ポリシーの例は何ですか?
1970年代に入ると、カナダですでに取り入れられていた多文化主義政策を導入して、白豪主義を撤廃、その後、国籍・人種を問わずに新移民の文化も尊重していく政策を取った。それと同時にベトナム・レバノンからの難民を大量に受け入れた。
しかし多文化主義政策に対する批判も多く、96年になると政治家ポーリン・ハンソンが政党ワンネーションパーティを作り右翼的な主張を打ち出し、オーストラリア人から一定の賛同を得た。
鍬の状態オハイオ州は、その名前を得ました
こういった保守的な流れが大きくなった中で政権を取った自由党のハワード政権では、多文化主義を見直し、難民の受け入れの門戸を閉ざし、技術移民者を優先する移民政策へと転換し、オーストラリア人としての最低の規範を共有した上での多文化主義という新しい方針を打ち出した。
2007年から始まったラッド政権では前政権と現在、際立った変更点はないものの今後注目していく必要があるだろう。
(詳しくは動画でご覧ください)
補足:
ストークリーカーマイケルは誰でしたか?
地理的・経済的に、「その安全と繁栄はアジア太平洋の国々と共にある」という認識を持ちながら、同時にオーストラリア政府は英国的である事も望んでいます。「多文化主義」「アジア重視」の政策をとりながら、根幹としてのアイデンティティに関わる深い悩みがそこにはあります。
オーストラリアは今日の現状を「果たしてこれで良いのか?」と常に悩み続けているのです。
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